きゃべつのはっぱ

日々の出来事や考え事の記録

MENU

花粉症がひどい!

昔はそうでもなかったのに、この数年花粉症が辛い。

 

今日は少し暖かくなったので散歩に行っていた。

川沿いを歩きながら、菜の花や鴨や雀のにぎやかな景色を眺めていた。

 

そういえば雀の頬に斑点があるのは「スズメ」でないものが「ニュウナイスズメ」らしい。食性が違うらしく、スズメは田んぼの虫を食べる益鳥でニュウナイスズメは稲を食べる害鳥としての面が強いらしい。

「舌切り雀」はニュウナイスズメだったのだろうか。

 

そんなことを考えながらボーっと歩いていたら、突然やってきた。花粉症だ。

とにかく鼻の奥がかゆい。かゆみに耐えながら早いところ引き上げようと考えていたら、今度はくしゃみがひどくなった。

十歩おきにくしゃみが出るような具合でもうどうしようもなかった。

すこし買い物をしてから帰ろうと思っていたが、中止だ。すぐに家へ引き上げてきた。

 

家に帰ってからは、鼻水がひどかった。ティッシュ箱から手が離せない。今日取った水分がすべて出て行ってるのではないかと思うほどだった。

鼻を取り外して全部洗浄したい。どうして人間の鼻は取り外し式じゃないのか。

どうにもならないことを思いながら一時間ほど鼻と格闘していたら、やっと落ち着いてくれた。

 

さすがに病院へ行こうかな……

 

今週読んだ本「緋色の研究」

探偵小説が好きでたまに読んでいたが、実はホームズを通っていなかった。

 

他にもデュパンもエラリーもメグレも読んでいない。これらもいずれ読みたい。

 

緋色の研究はホームズ第一作目で、ワトソンとの出会いから始まる。

従軍医だったワトソンは前線で負傷。イギリスへ帰り療養していたが金もなく、落ち着く家を探していた時に友人から紹介されてホームズとの同居を始める。ホームズはワトソンと握手しただけで何者かを言い当て、また外を歩く郵便配達員の前職も当てた。ワトソンはそんな彼が何者なのか怪しみ、また彼の推理力に半信半疑だった。そんな中一通の手紙が届く。空き家だったはずの家で死体が発見された。目立った外傷はなく、手掛かりもない。手紙は窮した刑事からの応援要請だった。二人は現場へ行き捜査を始めた……

 

パッとしない刑事たちとそれをからかうようなホームズ、無邪気に驚くワトソンとそれぞれのキャラクターは噂通りで、楽しく読み進めることができた。

一点だけ、逮捕後の犯人回想パートが長くて、途中で気持ちがダレてしまった。

 

全体としてはかなり満足、他の作品も読みたい。

 

ブログを書く理由

なぜこのブログを書こうと思ったのか。

 

もともとはTwitterをよく利用していた。思ったことをつぶやいて、知り合いとわちゃわちゃやっていた。

 

しかしTwitterがいやになってしまった。

 

理由はいろいろとある。

TwitterからXになって使いずらくなったのもある。スパムが非常に鬱陶しくなった。

 

しかし、それ以上に知り合いとのやり取りに疲れてしまった点が大きい。

 

身内ノリにひいてしまうようになった。

別に知り合いたちを嫌いになったわけではないが、空気感に合わなくなってきた。

 

そして自分を知っている人間に見られていることに嫌気がさしてきた。

自分の考えていることに対して反応が欲しいわけではない。それなのにリアクションを取られるのがいやになった。

投稿しようかと書き込んで、知り合いの顔が脳裏に浮かんで、削除することが多くなってしまった。

 

知り合いの前で知らず知らずのうちに「私」というキャラクターを演じていたのかもしれない。

 

また、いつでもどこにいても知り合いから連絡を取られるということに対して拒否反応が出るようになってしまった。これまでも連絡を頻繁にとるのがいやだったのが、もうなんの連絡もしたくないほどになってしまった。

 

しかし、日々考えているいろいろなことを抱え続けると自分がつぶれてしまいそうだ。

個人的に日記をつけることも考えたが、それだと反芻し続けることになりそうでやめた。

 

ある程度人目を意識して書いた方が自分を客観視できそうだと感じた。

誰かに見てほしいわけではないが、人目が必要であるという矛盾を抱えている。

 

そんな思いでこのブログを書いている。

葬式・血筋

雪がひどかった日、祖父が亡くなった。

 

もうそろそろかもしれないとは覚悟していたが、このタイミングだとは思わなかった。

コロナウイルスにかかり肺炎を併発したが、症状がひと段落していた時だった。

 

晩年の祖父は完全にぼけてしまっていて、なにも覚えていないようだった。

 

家族で介護をするには限界があり、施設へお願いしていた。

父親とともに何度か会いに行ったが、私のことが分からないのはもちろん父親のことも誰か分かっていない様子だった。

父親が名乗ると「直系じゃないか」と驚き、私が名乗っても顔をしかめたままだった。

こんな状態で面会したところでどうしようもないと思っていたため、私はいつも乗り気ではなかった。

 

元気だったころ、私にはいつも英語の本を読むようにと言っていたことを思い出した。

遺言ではないが、いただいた言葉としてもう忘れないでおこう。

もっと元気なうちに会っておくべきだったと思う。

一緒にお酒を飲むこともなく、永遠に会えなくなってしまった。

 

これまで幸運なことにこれまで一度も葬式というものに参加したことがなかった。

連絡があってから葬式までは1週間ほど時間があった。火葬場の予約が取れなかったらしい。

突然だったので、喪服を買うところからだった。時間の余裕があったのでその点では大変助かった。

 

祖父は静かな顔で亡くなっていた。

末期の水を捧げたが、本当に亡くなっているのかと思うほどだった。

 

葬式はわが血筋らしいものだった。

 

葬式の前に家族で食事に行くことになったのだが、母親の提案は焼肉だった。

「せっかくだからいいものを食べよう」というのは分かるが、この状況で焼肉はないだろう。無神経というか図太いというか……

こんなことを言いながらも、式中は一番泣いていた。

買ったばかりの喪服ににおいがつく、という理由でお断りした。

 

父親は読経中に寝ていた。直系だろ。

もう覚悟できていたのかもしれないが、それはないだろう。

焼香を寝過ごしそうになって、母親につつかれていた。

 

一番応えていたのは伯父のようだった。コロナ禍以降祖父と会えていなかったらしい。

そんな伯父も精進落としでは笑顔でがぶがぶと酒を飲んでいた。

私もだいぶん勧められた。

 

遺産の話もあったのだが、各々が「それぞれのいいようにしてくれ」と言って進まず、後日話し合うことになった。遺産争いとは無縁の雰囲気だった。

 

なんというか、暢気な一族だ。

 

自分にも同じ血が流れていると思うと、うれしくも誇らしくもある。

気が付けば

知らないうちに年明けから2か月も過ぎていた。

 

年明け早々日本全国で様々な事件があり、私自身も忙しくしていたせいで全く更新ができていなかった。

 

あれしてこれしてと日々は過ぎていき、気が付けば3月も半ばだ。

 

梅を見る暇もなく、いつの間にか桜がほころび始めている。

無印良品ではオックスフォードシャツが売られ始めた。

もう春だ。

 

1週間に1冊は本を読むと決めていたが、それ以降5冊くらいしか読めていない。

それだけ忙しかった。心理的にも負担の大きい出来事が多かった。

 

このブログも、前に更新したのは84日前だったようだ。

 

年が明けてからの出来事も振り返りながら、また気持ち新たに書き記していきたい。

 

今週読んだ本「『わかる』とは何か」

まだ今週始まったばかりだが、スキマ時間でサクッと読み終わってしまった。

 

この本は岩波新書の一冊。少し古い本だが、先日読んだ「バカの壁」にも関連した内容ではないかと思い選んだ。

 

この本の「わかる」対象は科学技術である。一般的な事象に対する「わかる」ではない。

そもそも科学技術の説明はどういった文法構造で説明されているのか、どれほどの正確さで説明されているものなのか、「わかる」にはどんな前提知識が必要なのか、「わかる」とはなんなのか……

 

そういった内容が説明されている本であった。

 

私自身は理系の人間であるため論文や科学記事の読み方はある程度雰囲気で心得ていたが、それを具体的に言語化されており改めて理解することができた。

これまで他人に自らの専門内容を説明するのが苦手であったため、どのような文章構造で説明すれば良いのかということを考え直すことができた。

 

「わかる」ということについて、この二週間で解像度がかなり高くなった。

 

今週読んだ本「バカの壁」

なぜこの本を選んだのか。

それは昆虫の動画を見ていたら養老孟司氏が出てきたからだ。

 

どんな方かよく知らなかった。孟子みたいな名前だなぁと思いながら動画を見ていると「これがあの有名な『バカの壁』ですよ」と馬と鹿が書かれた壁が出てきた。

 

あの有名な、と言われてもさっぱりピンとこなかったので調べてみると「バカの壁」という本を書いていたらしい。しかもベストセラーなんだと。

 

なんだかこの方にも興味が湧いてきたので、読んでみることにしたのだ。

 

タイトルでもある「バカの壁」とは何なのか。

端的に表すと「何もわかっていないのにわかったつもりになって外界を遮断している脳内の壁」となるだろう。

では「わかった」とは何なのか。ここではただ頭の中に情報として知識が入っているだけの状態を指しているのではない。情報ではなくその物事の細かなディティールを知ることが「わかった」という状態だとしている。

現代人は雑学ばかり手に入れてわかったつもりになっているが、その細かな部分はなにも知らずに、「わかっている」と思い込んでいるから物事に主体的に触れようとしていない。

まずはわかっていないことを理解し、物事に触れて考えるべきだ。

 

こんな感じの内容だと私は読み取った。

 

とりあえず一通り読んでみたのだが、途中納得できない部分、理解できない部分がいくつかあった。何度も読み返して少しづつ咀嚼していきたい。